Praya Palazzo

พระยาพาลาซโซ

Bangkok, Thailand バンコク、タイ

”数奇な運命を経て甦る、富豪の記憶”

忘れらた廃墟の邸宅が美しいホテルとして生まれ変わる。それはチャオプラヤー川の対岸側Bang Yi Khan地区に、生い茂る樹木の間から黄色い壁とオレンジ色の屋根を覗かせていた。原型になるコロニアル建築の邸宅が完成したのは1923年、「บ้านบางยี่ขัน」(Baan Bang Yi Khan)とも呼ばれていた。中国系富豪の上級官吏Praya Chollabhumipanishの所有で、当時のタイはイタリア人建築家達が公共建築物を設計していた時代ということもあり、デザインはパッラーディオ主義の影響を強く受けた。現在のホテル名、Praya Palazzoはイタリア語で「Prayaの邸宅」の意味である。アーチの扉と窓が続く2階建て左右対称のデザインで、正方形の中央の棟には地上から2階へ続く左右に振られた階段が真正面中央に付けられている。Lの字を逆にしたような左右両翼のホテル棟は独立してはおらず、建物裏側で中央の棟と通路で繋がっている。2階はファサード側でもバルコニーが通路に、1階はアーケードになって繋がっており、行き来できるようになっている。中央の棟は現在、1階は「Praya Dining」というレストランとギャラリー、2階は儀式や催しのためのファンクションルームになっている。レストランは濃い木目の色と深い赤を基調にしたデザインで、回廊にはこのホテルの歴史のガイドとなる写真等の展示がある。Praya Chollabhumipanishの死去後を引き継いだ息子のPanchit Anekavanichは、船でしかアクセスできず現代の暮らしに合わなくなってしまった住まいを、1946年にBangkok Noi地区のムスリムコミュニティ財団に譲渡することなる。財団はこの邸宅を使いโรงเรียนราชการุญ(Rachakarun School)と呼ばれる学校の運営を始めるが、資金難から1978年には閉鎖されることになる。その後1983年に、โรงเรียนอินทรอาชีวศึกษา(Inthara Suksa School)と呼ばれる私立の職業訓練学校となるのだが、この学校も1996年に閉鎖されてしまう。皆がその存在を忘れ、この邸宅も朽ちかけた廃墟となってしまった。やがて月日が経ち、崩壊しかけながらも美しいこの不思議な建築物について出自を探りたいと思っている人が出てきたようで、当時のインターネット上でも話題が見られるようになる。対岸の公園や船から廃墟を眺めるそのような人々の中の一人に建築家で助教授のWichai Pitakvorrarat氏がいた。この建築に魅せられた氏はホテルへの転換を計画し、チームで船で建設資材を運び、廃墟を解体し修繕や構造を改変した。復興に情熱を注いだ氏とそのチームはついに2009年に美しい姿に生まれ変わらせることに成功した。氏は完成後に残念ながら亡くなったのであるが現在はMontara Hospitality Groupというホテルグループが、再度の改修をし経営を続けている。若きCEOのKittisak Pattamasaevi氏の歴史建築を見る目は独特で、バンコクでは他にチャルンクルン通りの古い映画館であったプリンスシアターをホテルに改装している。ヨーロッパに影響を受け始めた古き時代のタイの歴史建築や中国系タイ人の生活に興味があるなら、ここに宿泊することは多いに価値があるはずだ。不遇の年月の後に、信念を持った人達との出会いで甦った美しきホテルを船で訪れる、水の都の時代が続いているような世界を現代で味わうよい機会ではないだろうか。

中央の棟はレストランとファンクションルーム。
左右両翼のバルコニーと後部の通路で繋がった棟がホテルルーム。

黄色い壁とオレンジの屋根、アーチ型の扉、
左右に振られた階段と、コロニアル建築の完全体。

ホテル全面向かって庭の左寄りにプールがある。


富豪の邸宅時代が甦る。


バルコニーは両翼を繋いでいる。
階下はアーケード状の通路で同じように繋いでいる。

左側ホテル棟。

公式には船でしか来ることができない。
対岸はPhra Athit桟橋。


中央の棟からホテル棟に繋がるアーケードのアーチから
2階を見上げる。


ホテル棟の廊下。
部屋のドア上の透かし彫りが美しい。

メイン棟1階レストランの「Praya Dining」の回廊。
展示やギャラリーになっている。


赤を基調にしたアンティーク風なデザイン。

2階ファンクションルームの回廊。


ファンクションルームは階下のレストランと違い
白を基調にした高貴なイメージ。